最近、再び本を読むようになった。
緊急事態宣言以降、リモートでの仕事が常態化するにつれ、週に一、二度の限られた都心への出勤日、その日を締めくくるのは、いつの間か書店となっていた。
二、三十代の頃、一日に一度は必ず書店に立ち寄るのが日課だったこともある。
コロナ禍のせいで、いつでも行ける場所ではなくなったことへの物足りなさをここにきて埋めようというのか、それとも、かつて感じた(二、三十代の頃の)日常の気分を取り戻そうというのか。それは分からない。ただ、忙しさにかまけて、仕事以外の本を読まなくなっていたことを悔いるかのように、毎度、手当たり次第、手に取っては買い、万単位で散財することも少なくなかった。
読書に当てる時間は、昼夜を問わず。在宅勤務のおかげで仕事は自分のペースで進められる。もともと深夜の帰宅が通常だったが、そもそも家にいるか、出かけても早めに帰宅するので、夜の時間はまるまま読書の時間となる。そこそこ「積読家」を自認していたが、この数ヶ月は積まれるそばから新たな本に手をつけ、濫読することに費やした。
いまさらながら気づいたことがある。実店舗としての書店の価値である。ネットの書店は、膨大な在庫とそこにいたるための案内(誘導!?)は完璧だ。
しかし、何のセレンディピティー(serendipity)も生み出さない。真の興味や好奇心は、自分でも気づいていないものである。それを気づかせてくれるのは、購入履歴ではない。通りすがりの棚や視界の片隅でたたずんでいる背表紙の記憶なのである。
しばらく見ないうちに、書店の数はかなり減ったように思う。
それ自体、書店好きとしては残念なことではあるが、このコロナ禍のさなか、知り合いの出版人によれば、それほど大きく売り上げは落としてはいないという。コロナ禍にあってわずかばかりの日常を手にしたくて、また、書店が醸し出すセレンディピティーに覚醒し、わたしのように散財した人が案外多いのかもしれない。